
アッパークラスでは、すでに盤石の地位を築いている
ドイツのプレミアムブランド。しかし、ここでも
新しい潮流は生まれている。それは「プレミアム」の
さらに上を行く超高級車市場における覇権争いである。
その先陣を切ったのは、ダイムラー・クライスラー。
既存の勢力に相対するのは復活した名門、マイバッハだ。
リポート|熊倉重春|S.Kumakura フォト|松本高好|T.Matsumoto
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威風堂々ぶりは大きさで決まる。日本でも走り始めたマイバッハ「57」は全長5.7mしかなく、より上級の「62」より50pも短い。にもかかわらず、混み合った東京の街に出た途端、そこだけ光も質量も吸い込む暗黒星雲のごとき存在感が漂う。単なる数字だけなら、もっと長大なクルマもある。しかしマイバッハの前では、リンカーンやキャディを改造したアメリカン・ストレッチ・リモなど、もはやチンピラ同然でしかない。
この威厳には名前も関わっているので、乗る前に背景を復習しておこう。19世紀の末、ゴットリープ・ダイムラーが自動車なるものを作った時、その右腕として活躍した技術者がいた。彼の名をヴィルヘルム・マイバッハという。
その後すぐ独立した彼はエンジン工場を興し、製品はクルマのほか黎明期の飛行機用としても重用された。しかし息子のカール・ヴィルヘルムが事業を引き継いですぐ、ドイツは第一次大戦に敗れヴェルサイユ条約によって空への情熱も断たれた。そこで息子マイバッハは1921年、本格的な自動車生産に乗り出すことになる。
マイバッハの特徴を簡単に表現するなら、「凝った先進メカニズムを、抑制の効いた古典的コスチュームに包んだ高級車」。もともと得意なエンジンに早くからプッシュロッドOHVを使ったのはもちろん、四輪ブレーキを備えた初めてのドイツ車でもあった。さらにトランスミッションへのこだわりも深く、'20年代の後半には自動的にシフトする副変速機も組み合わせて、前進8速のドッペルシュネルガングまで実用化している。
そんなマイバッハの絶頂期は主に'30年代半ばまで。7リッターのV12を搭載したDS7やそれを8リッターに拡大したDS8には、名だたるコーチビルダーが腕によりをかけて重厚かつ端正なボディを架装した。これらのマイバッハにツェッペリンの名が付けられたのは、あの巨大な飛行船に4基のV12が採用されたことに由来する。
マイバッハは、存在の形も独特だった。完璧な技術者魂を貫き通したため非常に高価になり、普遍性を持つことができなかったのだ。そして、それゆえ熱心なカスタマーを持てたのも事実だった。ワイマール共和国の流れをくむ保守派は、成り上がり者のナチ幹部が愛用するメルセデスやホルヒを嫌い、さりとて愛国者としてはロールス・ロイスなど買いたくなかったから、マイバッハを選ぶしかなかった。ただしそれだけでは企業の屋台骨を支えることはできず、戦火が激しさを増した'41年を最後に、乗用車界から消えることになる。この間製造されたマイバッハは約1800台余り、そのうち100台ほどが現存するといわれている。
そして戦後、ふたたび大型トラックや鉄道用のディーゼルエンジンを手がけてきたマイバッハは、'60年にダイムラー・ベンツに吸収合併、商標権も今のダイムラー・クライスラー社に引き継がれることになる。その名が'98年の東京モーターショーに展示されたコンセプトカーに付けられたのが、今ここにある新生マイバッハの第一歩だった。これはトヨタがレクサス・ブランドによって、高級車への参入を果たしたのと似ている。メルセデスも良品の代名詞ではあるが、小型車から超大型バス・トラックまで間口の広い総合メーカーでもあるため、もはや特別中の特別というイメージは薄い。そこで往年の同僚でありライバルであり、高級一本槍で知られ、今また手中にあるマイバッハの看板を、桐の箱から取り出したというわけだ。
――と、ずいぶん前置きが長くなってしまったが、なぜメルセデスともあろう名門がわざわざ別の名前を使うのか、その名前がどんな意味と重みを持つのか、これでわかってもらえたと思う。
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外観同様、室内も重厚にして上質な仕立て。その一方、ハードウェアは革新的でトランスミッションには、なんとギアを事前に選択できる5速のセミATを搭載していた。 |
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有名な巨大飛行船、ツェッペリンがクルマと共に描かれている当時の広告。その理由は、ツェッペリンが動力源としてマイバッハのV12を4基搭載していたからだという。 |

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