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川上 完のToyBox
ウチにあるクルマたち2
「フリートをミニチュアカーで楽しむ」の第二弾である。今回は、ウチの真打ち(?)とも言える英国車1960年型ブリストル406だ。
このブリストル406は、17年ほども前に、僕が未だ東京の練馬区の片隅に住んでいたころに、英国にあった中古車(太古車?)を、個人輸入の形で購入したもの。価格は当時でも1万9000ポンドだったと記憶する。ブリストルとしては決して高い方ではない。日本ではほとんど知る人も稀な、こんな訳の分からぬクルマに何故のめり込んだのかと言えば、SAAB96-V4 のときにも述べたように、小さい頃からの飛行機好きが嵩じた果ての、とんでもない買い物だったのだ。
ブリストル(Bristol)というメーカーは、サー・ジョージ・ホワイトという人物が、1911年に英国西海岸にある貿易都市、ブリストル市の近郊に、英国初の航空機メーカーとして設立されたブリストル社をそのルーツとする。第一次世界大戦では「F2bファイター」や「スカウト」など、第二次世界大戦では「ブレニム」「ボーファイター」「ボーフォート」などの高性能機を生み出し、英国の勝利に貢献した。第二次世界大戦後の1948年頃から自動車の生産に進出、ドイツの高性能スポーツカーであった「BMW328」をベースとしたスポーツサルーン「ブリストル400」を皮切りに、現在でも高価高性能なスポーツカーを少量生産している。最新のモデルは2006年に発表された「ファイター」で、14万ポンドの高価格車だ。一言で言えば、きわめて英国的な、言い換えれば奇妙奇天烈な自動車メーカーなのである。
20歳代半ばで、運転免許を取得する半年も前に三菱Jeep J-3Rを買ってしまい、そのJeep の幌が雨漏りするからと、唐傘代わりにとスバル360を買い、この2台が奇しくも三菱重工と中島飛行機と言う、嘗ての航空機メーカーのクルマだと気付き、次に購入したのがSAAB96という具合に、思い込んだら猪突猛進してしまう悪い性格が目を覚まし、此処まで来たら次も飛行機メーカーのクルマだ! ということになる。当然、ターゲットはブリストルに絞られた。そして、たまたま読んでいた英国のクラシックカー専門誌の個人売買欄に出ていたクルマを買うことになった。売買欄にはたった3行、「Bristol406 Excellent originalcar .metallic silver with red leather ○○○-XXX(電話番号)」と書いてあるだけ。これでは、価格も不明、クルマの状態も分からないし、どんな保管方法であるかも分からない。しかし、この3行にはピンと来るものがあった。
懇意にしていた外車輸入をやっているショップに頼み込んで、必要な手続きをしてもらいながら、クルマの状態を確認した。送られて来た数枚の写真から判断する限りでは、そんなに酷いクルマではなさそうである。1990年の時点でも30年前の太古車を見ず転で買おうというのだから、今考えても冷や汗が出る。件のショップの主人の「まあ、大体こんなモンだよ」の一言に押されて、遂に英国に金数百万円の現金を送った。バブル期の絶頂時代とは言え、よく我が家にカネがあったものである。まあ、これも巡りあわせという奴かも知れない。数ヶ月の後、そのBristol406は晴海埠頭に陸揚げされたのだった。
さて、それからが大変である。クルマの程度は「大体こんなモノ」のレベルだったが、全く日本に前例が無いクルマだったから、車検を取得するのにさらに数十万円のお金が必要だった。今日に至る山あり谷ありのストーリーは、それだけで優に一冊の本が書けるほどである。しかし、このBristoil406を買ったことは本当に良かったと思う。16年前に購入してから今までのランニングコストの総額は、おそらく1000万円は優に超えているのではないだろうか? それでも、僕としては他のクルマに浮気をしようという気は起こらないし、買い換えるべきクルマもまた見当たらないのである。たとえ見付かったとしても、ただ単に台数が増えるだけだろう。こんなクルマと出会えたことはラッキーだったと思っている。
ミニチュアカーの方は、実車のBristol406を手に入れてから数年の後、たしか1995年の頃だったと思うが、当時英国に住んでいた友人がBristol406のオーナーになったことを記念して、わざわざオークションで入手してプレゼントしてくれたものだ。彼は、住んでいるロンドンからバイクを走らせて、ミニチュアカーのあるスコットランドまで、往復に3日も掛けて取りに行ってくれたのだと言う。
ミニチュアカーは英国のトライアング(Triang)社製の「スポットオン(SPOT-ON)」ブランドで、実車のBristol406がデビューした頃に造られたもの。おそらく、このクルマのミニチュアカーとしては他に製品化されたものは無いと思われる。材質はアルミニュウム・ダイキャストで縮尺は1/42と変則的。プロポーションは良く、このクルマの特徴を良く捉えている。
状態はご覧の通り余り良くない。実は僕の手元に来た当時からこの状態だった。だが、塗り替えなどは一切せず、このまま飾っておこうと思っている。このミニチュアを見ていると、寒空の下で必死にバイクを走らせている彼の姿をイメージすることが出来るのだ。こうした時間の経過を感じられるのも、ミニチュアカーの良さだと思う。
ウチにあるクルマたち
今回は、ウチのフリートをミニチュアで紹介してみたい。まあ、決してお宝自慢をしようと言うわけではないので念の為。大体が、ウチにあるクルマたちはお宝になるものなど一台も無いんですからね。
そのフリートと言うのは、旧い順に並べると、1960年型の英国車「ブリストル406」、次が1971年型の日本車である「スバル360」、その次が1971年型と思われる「スバルR2 GL」、そして1979年型のスウェーデン車「SAAB96-V4」、最後が一番新しい2005年型の「ホンダ インサイト」の計5台である。この5台に共通していることは、全て飛行機のメーカーが造ったクルマであること。「ホンダ インサイト」は違うだろうといわれる向きもあるだろうが、ホンダも昨年から自前のジェットエンジン付き小型機の生産を始めたレッキとした航空機メーカーなのであります。幼いころからどういうわけか飛行機が好きで、気が付くとこれだけ集まってしまったんですね。因果な(?)ものであります。
まずはSAAB96-V4です。実車の方は1979年型(と言うことは最終型だ)で、購入してから27年目になるクラシックだ。本当は2サイクルの3気筒エンジン付きのモデルが欲しかったのだが、27年前の購入時点でもとても実用にはなりそうも無かったので、1469ccのドイツ・フォード製V型4気筒エンジン付きのものにした。と言うより、これしか選択肢が無かったというのが本当のところ。1980年ころに旧・西武自動車販売がサンプルとして輸入した5台のうちの一台で、ボディ・カラーは濃いブラウン。僕が買ってすぐに付いたあだ名が「チャバネゴキブリ」だった。なかなか言い得て妙である。爾来、オドメーターは14万キロ以上を刻んでいる。一時期、速度計のケーブルが切れてしまっていたことがあるので、実際はもう少し多いかも知れませんが。
ミニチュアカーの方は、英国ディンキー製のもので縮尺は1/43。ボディ・カラーは実車とは全く異なる赤のメタリックだ。年式的に言うと、僕の所有車よりも若干旧い1968年ころのモデルと思われる。左右ドアが開閉可能でサスペンションが可動というアクション付きだ。しかし、さすがにプロポーションは良く、実車の雰囲気を良く出している。ボディ・カラーを所有する実車と同じ濃いブラウンに塗り替えようかとも思ったが、シャシーとボディが鋲止めされているのであきらめた。これは30年ほど前に、日本の専門ショップで購入したもの。当時もあまり人気が無く、かなり安価だったと記憶する。でも、3000円くらいだったはずです。
新潟中越沖地震
また、地震である。マグニチュード6.8、震度は6強……。新潟中越沖地震だ。
地震が起きたとき、僕は家の外にいた。ちょっと出かける用があり、天気も良いからと、久しぶりにブリストルを動かそうと、車を外に出し、エンジンのウォームアップを始めた直後だった。ガレージに戻ろうと車から降りた途端、日ごろあまり耳にしたことのない、奇妙な重低音が響いた。それは、30トン積みの超大型ダンプトラックが走り始める時の音に似ていた。地面のはるか下の方から沸き上がってくる感じだった。いわゆる地鳴りである。
次の瞬間、目で見てはっきりと分かるほど、地面が左右に揺れ始めた。じつは、僕の体がゆれたために視点が動き、大きな揺れに見えただけだったのだが。そんなことは後から思い当たったことで、その瞬間は体が固まったようになってしまい、歩き出すことは出来なかった。

ふと、家のほうを見ると、全体が大きく左右に揺れ動いているように見えた。これも体の動きのせいだったのだが、今にも崩れ落ちるのではないか? と不安に襲われた。この揺れが実際にかなり大きかったことは、外にあったブリストルのボディが揺れていたことでも分かった。それは、瞬間的な揺れではなく、相当な長い時間に渡って揺れていたものらしい。車のサスペンションは、瞬間的な入力は抑えることができるものだが、時間の長いゆっくりした揺れでは場合によって揺れを増幅する場合がある。ブリストルがまさしくそれで、ホイール・アーチの隙間は目に見えて広くなり、ルーフのアンテナは震えていた。

揺れが収まり、急いで家の中に入ると、カミサンが「大丈夫だった!?」と声を掛けて来た。この人の気丈さには何時も敬服する。家の一階部分はほとんど被害も無かった。ヤレヤレである。
で、次に心配になったのは、二階にある自分の部屋だった。数百台のミニチュアカーが裸のままクルマ止めも無い棚に、また天井から吊り下げたヒコーキのプラスチック・モデル、大量の書籍などなどが何の地震対策も施されないまま、並べられているだけだったのだ。本棚から飛び出して床に散らばる本や書籍、展示棚から落下してバラバラになったミニチュアカー、吊り糸が切れて墜落したヒコーキのプラスチック・モデル……そんな情景を想像して、暗澹たる気持ちになった。結局、被害は写真に見られるように、きわめて軽微なもので済んだ。ヤレヤレである。

実は3年前の中越地震のときも、同じような状況だった。ただし、あの時は居間にカミサンと居て、地震が起こったときには、反射的に出入り口のドアを開けたり、ガス栓を閉めに走ったりと比較的落ち着いて行動できたものだった。まあ、あれだけの地震があれば、また同じような場所で地震があるとは誰も思わないだろう。しかし、また地震は起こった。
おそらく、全地球的な時間で考えれば、先の中越地震も今回の中越沖地震も、同じ時間系列の中の出来事なのだろうが。ついつい我々は人間の日常的な時間感覚で物事を考えてしまう。あれだけの地震が一回あったんだから、同じ場所ではもう起こらないんだ、と。それが、とんでもない思い違いと思い上がりであることが今回のことではっきりしたわけだ。今後は、このミニチュアカーや書籍、本の収納方法も考え直さなくてはなるまい。あまり考えたくはないが「2度あることは3度」というではないか。
PS:今回の「新潟中越沖地震」に際し、たくさんの方々からお見舞いのメールや電話を頂きました。あらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。
スバル360との35年
1971年3月、アメリカのネバダ州リノにあった1400台以上の蔵車を誇っていた「ハーラーズ・コレクション」の一部が日本で公開されたことがあった。大学を卒業して一応社会人となっていた僕は、公開初日に会社を休んでカメラを片手に、展示会場となった晴海の貿易センターに赴いた。初めて見る「ブガッティT41ロワイヤル」(1931年)の壮麗さ、「メルセデス・ベンツSSKドロップヘッド・クーペ」(1929年)の迫力、また、「マーサー シリーズJタイプ35レースアバウト」(1913年)の見事なバランスなどに圧倒されっぱなしだった。勢い込んで写真を撮ろうと思っていたのだが、終に満足な写真は一枚も撮れなかったほどだった。僕がクラシック・カーの虜になってしまった、それは最初の切っ掛けであったかもしれない。それほど、「ハーラーズ・コレクション」のインパクトは強烈だったのだ。

この「ハーラーズ・コレクション」の中でも、一際印象に残ったクルマがある。それは「ブガッティT50クーペ」(1932年)だ。ブガッティ初のDOHCエンジンを搭載したツーリングカーであることで知られているが、衝撃的だったのは、真紅のボディと漆黒のフェンダーとトランクからルーフに至る見事なデザインだった。この「ブガッティT50」の前で「よーし! クルマを買ったら、ボディを絶対このカラーリングにしてやるゾ」と心密かに誓ったことだった。しかし、自分オクルマを持てるようになったのはそれから3年後の事になってしまう。

最初勤めた会社を辞め、フリーランス・カメラマンと言う日雇い労働者となった僕は、クルマに対する欲求を募らせてはいたのだが、如何にせん先立つものの都合が付かず、なかなかクルマを買うことは出来なかった。しっかりした会社勤めをしている友人たちの多くは、国産車であれ輸入車であれ、ローンを組んで次々とクルマを買っていた。時期的に遅れれば遅れるほど、「友人たちと同じクルマなど買えるか!」と言う妙な対抗意識が芽生えてくるものだ。僕が、遅ればせながらクルマを買おうとしたとき、友人たちはまず乗らないJeepを選んだのも、そんな理由があったのだ。そして、Jeepの雨漏りに閉口して買ったのが、件の「スバル360」だったと言うわけだ。

言うなれば、「スバル360」は、初めて買った「マトモな乗用車」だったから、早速ボディ・カラーを、何時か晴海の貿易センターで見た「ブガッティT50」と同じイメージにすることに抵抗は無かった。ちょうど良いことに、もともとこの「スバル360」のボディ・カラーは赤色で、ルーフが黒色だったのだ。早速懇意にしているクルマ屋さんへ持ち込み、数週間かかりで描いたデザイン・スケッチを見せて、自分のイメージ通りの塗り分けにしてもらった。「スバル360」を購入してから3ヵ月後には、前後フェンダーとドア部分が黒色、残った部分が赤色という、僕の「スバル・ブガッティT50」が出来上がった。以後今日に至るまで、そのカラーリングは変わっていない。後々周囲からは「シトローエン2CVチャールストンの真似だろう?」などと言われるが、僕の「スバル・ブガッティ」の方が、2CVチャールストンのデビューよりも数年早いのである。この塗り分けは断じて物まねなどではない。今までにも3回ほど塗装をやり直しているが、イメージは一切変えていない。

一方の「ブガッティT50」のミニチュアは、30年ほど前に入手したもの。イタリアのRIO社製で縮尺は1/43だ。テール・ライトの片方は、何時の間にか失われてしまった。これも時間の流れを物語る証左だと思っている。
35年間、愛し続けたてんとうむし
今、僕の所有車は全部で5台ある。中でも最古参(?)のクルマが、1969年式とおぼしき「スバル360デラックス」である。このスバル360は、僕の手元にやって来たのが1972年だから、すでに35年が経ったことになる。何故、スバル360だったかと言うことに当初は大した意味は無かった。
当時、僕は80万円の中古で買った1970年型の三菱Jeep J-3Rに乗っていた。ソフトトップなどと言えば聞こえは良いが、トップを下ろすのに30分以上もかかる代物で、とても手軽にオープンエアなど楽しめるものではない。そんな幌付きのモデルだ。加えて、経年変化で穴だらけの上に、鉄骨にキャンバス張りのドアも満足に閉まらない。これでは、雨の日には乗ることは不可能だ。
思い余った僕は、唐傘代わりにもう一台クルマを買うことにした。とは言っても、新車が買えるほどお金があったわけではないから、当然中古車、それも軽自動車である。友人たちに声をかけたり、夜な夜な街道筋の中古車屋めぐりをするなどしていたが、これと言った出物は見付からなかった。
そろそろクルマ屋めぐりにも飽きて来たころ、真夜中に友人の一人からの電話で、スバル360の売り物が在ると言う耳寄りな情報が届けられた。歯医者さんがセカンドカーとして持っていたもので、走行距離は5万キロ、ボディカラーは赤で、ガレージ保管だったので錆や腐りはなく、エンジン、トランスミッションも調子良いとのこと。
「お前が買わなければ、明日にでも別の売り口がある。価格は5万円だ」と言う。これはもう買うしか無い。当時は24時間使えるATMも、コンビにも無かったから、とりあえず部屋中引っ繰り返して有りったけの現金を引っ張り出し、夜中の2時頃だったがかまわずにJeepを飛ばして友人宅へ駆けつけた。お互い独身だったから、そんなことも出来たのだ。
その日はお金だけを友人に託して帰宅し、後日そのスバルを引き取りに行ったものだ。実は、軽自動車なるものをドライブしたのはその時が初めてだったのだが、360ccという排気量の小さな2サイクル・2気筒エンジンを、3速+オーバートップのギアを間断なくチェンジを繰り返し、可能な限り最高出力の回転数に維持しながら走るという、それまでのJeepとは全く異なる操縦感覚に一発で参ってしまった。「これは文句無く面白い!」以後、このスバル360デラックスは、ずっと手元に住み着くことになったのだった。
赤と黒のツートーンに塗り分けた理由やその後に起こった僕に関する決定的な出来事などについては、また後で書くことにしよう。
ちょっと面白いもの入手
今回は、ちょっと面白いものが手に入ったので、そのことを書いてみよう。まあ、僕が「面白いもの」などというものには、あまり色っぽいものはないのは何時ものこととてお許し願いたい。
僕の友人の一人に、某自動車メーカーの広報部に勤務しているY君なる人物がいる。クルマ好きではあるのだが、熱狂的なクラシックカーのファンでもなければ、“オタク的”なF1マニアというわけでもない。しごく一般的な社会人なのだ。僕から言わせてもらえば、何の気兼ねもなく、普通に付き合える数少ない友人でもある。
そんな彼は、この数年アメリカ支社に赴任していたのだが、つい最近帰国した。その手土産に、旧いアメリカの自動車雑誌を買って来てくれたのだ。誌名は「Road & Track」で1963年8月号。ちなみに、当時の価格は50セントだった。
何故、Y君がこの雑誌を買ってくれたのか? と言うと、記事の中に第一回日本グランプリ自動車レースのことが書かれていたからだ。一ページにわたって書かれている「First Grand Prix of Japan」とタイトルの付けられた記事は、Don Dillardという人の署名記事で、カメラマンも外国人名になっている。記事を読んでみると、完成間もないスズカ・サーキットでのレースの模様と出場マシンやドライバーの紹介などに始まり、2日間にわたるレースの模様が簡潔に書かれている。
記者氏が最も驚いたのは、C-1クラスの400cc以下、つまり軽自動車で行われたレースだったようで、「……何、400cc以下だって! イセッタじゃあないの?」と書いている。当時のアメリカでは、こんな小さな車でレースをするなど考えられなかったのだろう。「日本の道路は狭いし、制限速度も低いから、速度制限のないサーキットでのレースは、今後も人気を集めるだろう」と記事は結ばれている。その後の日本でのレース人気の高まりは、この予想を裏付けることになった。Donサン、あんたは偉い!
写真のミニチュアカーは、つい最近発売された第一回日本グランプリレースの、「国際スポーツカー1000cc以上混合」というクラスで優勝したロータス23(Spark製1/43)。ドライバーは後にロータス社のレーシング・マネージャーになるピーター・ウォーア(Peter Warr)で、当時24歳。この変則的混合レースには、ポルシェ356カレラ2、フェラーリ250GT SWB、アストンマーティンDB4/GT Zagato、ジャガーDタイプなどが出走した。
ミニカー集めを始めたのは……(その2)
ちなみに、実車のBugatti T41 Royaleは、1927年から1933年のあいだに、芸術的かつ天才的自動車デザイナー、エットーレ・ブガッティが、ロールス・ロイスやイスパノスイザをはるかに超える超高級車として、水冷直列8気筒SOHCで排気量1万2760ccという巨大なエンジンを搭載したモデル。発売開始された時期が世界的な不況の最中だったこともあり、また、車として時代遅れになっていたことなどから、結局6台しか造られなかった。
6台すべてが異なるスタイルのボディを持つことでも知られるが、僕がプレゼントされたのはT41の3号車で、2シーターのカブリオレは、ドイツのミュンヘンにあったワインベルガー(Winberger)というボディ・メーカーの作品。現在はアメリカのミシガン州デトロイトのディアボーンにあるヘンリー・フォード ミュージアムに所蔵されている。20年ほど前に初めて実車を見たときの感慨は一入だった。ただし、実車のボディ・カラーはオフ・ホワイトである。
また、写真の背景に置いてある広角28mmタクマー・レンズ付き「アサヒペンタックス SV」は、学生時代から僕が使っていたもの。今までに一回シャッター幕を張り替えているが、今でも立派に可動する。この二つを見ていると、あのころの情景が思い出される。二度と帰りたくはないが、面白く、楽しい時代だった。
今回はオジサンの思い出話でした。
ミニカー集めを始めたのは……(その1)
今回は少し(でもないか?)旧い話をしてみよう。
ぼくが、ミニチュアカーを集めるきっかけになったのは、今から40年ほど前、21歳の誕生日に、友人たちが共同でプレゼントしてくれた一台だった。イタリアのRioというメーカーの1992年型ブガッティT41 ロワイヤルがそれ。縮尺は1/43、ボディ・カラーはライム・グリーンである。価格は当時でも結構高価で、確か2000円くらいだったと記憶している。
そのころは写真大学の学生だったが、学校が中野坂上にあった関係で暇さえあれば新宿の西口地下広場にあった喫茶店で仲間4人が集まり、写真の芸術的表現や写真報道の手段やあり方といった高尚なテーマで、口角泡を飛ばして談じ合っていた……などというと聞こえは良いが、実は話題の中心はもっぱらクルマと女の子のことだった。
其処にファッションに関することが無かったのは、みんな着るものに賭けるお金がなく、そんなお金があったらフィルムを一本分でも余計に買いたいと思っていたからだ。我々に共通しているのは、写真とクルマが飯よりも好きであったということ。何と純粋であったことか!?
そんな連中が、僕の誕生日にお金を出し合ってこのブガッティのミニチュアカーをプレゼントしてくれたのである。これは感激モノであった。
夜になって下宿(今や死語である)していた部屋に帰り、パッケージを開いてミニチュアカーを取り出し本棚に置いた。天井から吊り下げられた白熱電球の赤茶けた光に照らされたブガッティ・ロワイヤルは、色気のないアパートの一室の中で光り輝き、其処だけが別世界に見えた。ミニチュアカーというのは何とすばらしいものだろう。と心底思った。これが、ミニチュアカーを集め始めたきっかけだった。
このブガッティT41 ロワイヤルは、無論今も手元にある。さすがに、何回も引越しをしているから無傷という訳には行かず、後のバンパーやテールライトの一部は欠損してしまっている。しかし、ライム・グリーンのボディ・カラーはあの輝きを失っていない。以後、僕の周りにミニチュアカーは増殖を続け、その総数さえ数え切れないほどになった。
だが、一台だけ残せ! といわれたら、僕は躊躇なくこのブガッティT41 ロワイヤルを選ぶだろう。僕にとってはほかには代え難い一台なのだから。こんな一台を持てたことだけでも、永年ミニチュアカーを集めていてよかったと思う。
このミニチュアカーをプレゼントしてくれた連中とは、今も友達付き合いが続いている。40年後の現在では、一人は糖尿病になり、別の一人は心不全で死に掛けたし、もう一人は写真とはまったく関係のない仕事をしているのだが。人生とは結構楽しいものである。
(続く)
雪が無い!
今年は雪が異常に少ない。まあ、何年かに一度は雪の少ない年は巡ってくるのだが、それにしても、今シーズンの雪の少なさはちょっと変だ。降雪の絶対量が少ないのに加えて、降った雪が地表に留まらず、すぐに消えてしまうのである。空気が冷えていないから、地面も冷たくならず、雪はすぐに溶けてしまうのだろう。
いよいよ地球温暖化も極まれりと言うところか? 不気味な感じがする。
2006年2月
2007年2月
昨年の今頃は、4メートルに近い積雪と連日悪戦苦闘していたものだ。2006年2月に撮った写真に見る、インサイトの後ろ側にある雪の壁は積み上げたものではなく、自然に降り積もったものなのだ。高さは優に3メートル以上はある。
写真は、ほぼ同じ時期の同じ地点で撮影したものなのだが、雪に埋まっているのが昨年のもの、普段とあまり変わらないのが今年のものである。この違いは一体何なんだろう。去年の今頃は、連日1日朝昼晩3回の除雪に除雪機が大活躍していた。
2006年2月
2007年2月
雪の無いのは、クルマ乗りにとっては有り難いことなのだが、それにしても、まったく雪が無い真冬というのも何となく落ち着かないものだ。この分で行くと、汗をかかない真夏なんてことにならないとも限らない。それもちょっと困ってしまうのだが……。
アルファロメオB.A.T.シリーズ(その4)
三番目は1955年のB.A.T.7です。
この実車のベースは、1900スプリントから1900スーパー・スプリントに代わっています。前作のB.A.T.7が余りにアグレッシブだったのを反省(?)して、アルファロメオ独特の盾形グリルを付けたり、テール・フィンも低くされるなど、至極真っ当な、と言うか当たり前のデザインになっています。シルバーのボディに赤い革張りのインテリアが良くマッチしていますね。曲率の大きなフロント・ウィンドウをカバーするために、ワイパーが3個も付けられています。このまま量産化してもおかしくないほどです。
ミニチュアカーのメーカーはビザールで縮尺は1/43。材質はやはりレジンです。
こうして、3台のB.A.T.を並べて見ると、当時のイタリアン・スタイリング・デザインの先進性が良く分かります。
クライスラーとカロッツェリア・ギアの共同開発によるクライスラー400(Dart)などをきっかけに、アメリカでテール・フィンの大流行が始まるのが1956年辺りからですから、スカリオーネのB.A.T.シリーズはその先鞭を付けたことになります。歴史的に見てもこれらは重要なモデルだったわけですネ。





